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【前編】人が人らしく生きていくために、 農業応援団を育成する「教育ファーム」を。小森一秀インタビュー

交流・景観・建築デザインの力で“感動”を演出するために、企画から事業計画・運営までトータルにプロデュースしている株式会社TONZAKOデザインが贈る、仕掛け人インタビューのコーナーです。まずは、TONZAKOデザインのメンバーのインタビューからスタートします。仕掛け人たちと共に、感動体験をつくるメンバーたちの個性を感じとっていただけたら幸いです。

クリエイターインタビューNo.3(前編)

「ランドスケープデザイン」の松崎氏と倉方氏、「建築設計」の山田氏、「事業デザインから施設運営」の小森氏。その4人が5人の仲間と立ち上げたTONZAKOデザイン。まだ設立1年だが、いろいろな相談が持ち込まれています。そこには言葉にできない不思議な魅力があります。その魅力を探るべく、立ち上げメンバー4人の経歴や考え方、何を考え、どこに向かおうとしているのか?また、プライベートをお届けします。

コミュニティクリエイター 小森一秀 Kazuhide Komori[前編]

取材日:2020年6月1日
取材

前編~目次~
中学の時、日本なのに全く言葉が通じない田舎へ。そこの農村風景が残ればいいなぁと。
「仕事で山に登れる会社」ってすごいいいなぁ!って思ったんです。
僕にとって愛知万博は「もうあれ以上の仕事は二度とない」と思える存在です。
「モクモク」は、お客としていっても面白い。働いているスタッフも楽しそうだったんです。
リーマンショックで光があたった農業。まだ、六次産業化という言葉もなかった
農業の問題は、作り手側に「価格決定権がない」こと。

中学の時、日本なのに全く言葉が通じない田舎へ
そこの農村風景が残ればいいなぁと。

初めて農業を意識したのは、中学生のころでした。友達一家に誘われて、山形旅行へ。そこは農村地帯で棚田がとても綺麗な町。ペンションに泊まり、清流で釣りをして過ごしました。その時、地元のお婆ちゃんが話しかけてくれたんです。だけど何を言ってるのか、さっぱり分かりませんでした(笑)。同じ日本なのに。その光景が不思議に今も胸に残っています。あの風景は残したいなあと。

「仕事で山に登れる会社」ってすごいいいなぁ!って思ったんです。

大学を出て最初に就職したのは、東京の環境コンサルタント会社の株式会社プレック研究所でした。そこで松崎や倉方と出会うのですが、その話は後ほど。就職した理由は、実は働きたくなかったから(笑)。大学時代は山登りに熱中して、勉強はさっぱり。「卒業したら俺は山小屋で働くぞ」なんて思っていたんです。

そんな中、大学4年生の時に、環境関連の法律を学ぶ講義がありました。山が好きで自然に興味があったので「ちょっと聞いてみるか」くらいの気持ちで授業に参加。講師の先生の自己紹介に衝撃を受けました。「私がいる会社は、山に登って調査したり、自然環境の調査をしたりしています」。それ以外の授業内容は全く覚えていません。とにかく「山に登ってお金をもらえる仕事があるのか!」とビックリ。授業が終わると先生の所に駆け寄り「先生の会社で働かせて下さい」とお願いしました。

「仕事で山に登れる」というだけで、何をする会社かよく知らないまま入社しました。そのころの社会状況は、“公害問題”という言葉がまだ残っていたような時代。“環境問題”というワードが広まる前夜です。そんな時に入社したのが環境コンサルタント会社でした。入社してみると何のことはない営業部署。「仕事を取って来い!」と放り出され、毎日が飲みニケーション。それでも会社は僕の山好きを忘れないでいてくれて、山で調査が必要な時は駆り出されました。「よっしゃ明日はネクタイせんでいい!」と喜んで山をよじ登ってました。スキー場やリゾートホテルを造る前には必ず環境アセスメント(環境影響評価)の調査をします。それ以外は営業の日々でしたが、営業の仕事もどんどん面白くなりました。

僕にとって愛知万博は
「もうあれ以上の仕事は二度とない」と思える存在です。

僕の転機になったのが、名古屋への転勤。ある日部長に飲みに連れて行かれ「明日、名古屋へ行くぞ。事務所をつくるから」。それで転勤というわけです。一人ぼっちの事務所に電話が置かれ、僕の名古屋生活が始まりました。会社が名古屋に進出した理由は、大きな公園の計画ともう一つ、愛知万博の誘致活動のため。誘致が成功した開票速報の当選の瞬間は、今でも名古屋のホテルの会場が熱気に包まれたのを覚えています。1997年の6月のことでした。僕は30歳になる前で、胸が震えて「この仕事をやり切るぞ」と腹を括りました。そして2005年に「自然の叡智」をテーマにした愛知万博が開催され、その翌年まで力を尽くしました。

面白かったなぁ。誘致に成功して、地元の反対活動が凄ごかったし、途中で会場変更もあり、環境アセスメントのやり直し。環境アセスメント法の整備と万博準備が同時期で、走りながら法律が作られていく感じ。変化する状況に対応して、無茶も色々したなぁ。あれ以上のことはできないし、やり切った感じがあります。そして万博の後処理を終えた2007年に退職しました。

「モクモク」は、お客としていっても面白い。
働いているスタッフも楽しそうだったんです。

結婚して子の親になっていた僕が、「これからどうしよう」と考えた時に思い浮かんだのが、『伊賀の里モクモク手づくりファーム』でした。農業のテーマパーク。よく家族でそこに遊びに行っていて、その時のスタッフの対応が素晴らしかったんです。「どうして皆こんなに楽しそうに働いているんだろう。面白い会社だなぁ」と興味津々でした。

『モクモク』は当時すっかり人気上昇中で、企業や行政からの視察がすごく増えていました。「『モクモク』に事業のアドバイスをして欲しい」という仕事が舞い込み始め、コンサルティング子会社を作ったばかりのころ。そこに僕がコンサル出身として入社を志望したのです。「コンサル出身が来たぞ! こりゃあいい」ということで採用。自分でも良いタイミングだったと思います。

『モクモク』への転職を機に名古屋から滋賀県甲賀市へ移住しました。すっかり気に入り、今でも住んでいます。2017年まで『モクモク』で働き、現在に至ります。

リーマンショックで光があたった農業
まだ、六次産業化という言葉もなかった

2008年はリーマンショックが起こり、企業の雇用体制が揺らぎ、農業に脚光が急にあたりました。「これからは農林水産業を活性化させ、6次産業化で成功しよう」というムードが高まり、色んなTV番組が『モクモク』へ取材に来てくれました。そして『モクモク』で働きたい就職希望者が何千人にも急激に膨らみ、スタッフ皆で驚きました。

『モクモク』時代に一番お世話になったのが、社長の木村修さんと専務の吉田修さんの2人です。入社面接では吉田専務にお世話になりました。入社決定後に家族でご挨拶に行った時、迎えてくれたのは木村社長。娘のために採れたてブルーベリーを持って現れ、娘を感激させてくれました。木村社長は人を喜ばせることに秀でていて、“人をその気にさせるプロ”。スタッフ皆も社長が大好きな様子でした。「この人のためなら仕方ないねぇ」と思わせてしまう才覚の持ち主。一方、吉田専務は厳しい方。“仏の木村&鬼の吉田”ペアでビジネスしていて、とてもバランスが取れているなぁと思いました。

農業の問題は、作り手側に「価格決定権がない」こと。

木村社長と吉田専務は2人でよく「事業と運動」という話をされていました。事業とはビジネス、運動とは社会に対する働きかけのこと。ビジネスと社会性を両立して、『モクモク』のファンを増やそうと。そしていずれはもっと広く「農産物の価格決定権を農家側に取り戻そう」とされていました。

農業の構造的な問題はここにあります。作り手側に価格決定権がない。農産物を作るためにかかる経費……仕入原価、人件費、一般管理費、利益etc.いくらかかろうが、そんなことはお構いなし。相場で売値が決まります。これでは農業はビジネスにならない。

目を外に移してみると、スポーツやアイドルのファンは、チケットを買い叩くようなことはしません。人となりを知り、日々の奮闘を知り、応援のためにチケットを買ってくれる。農業ビジネスもそうあるべきだ。……というのが2人の考え方。実際『モクモク』には、熱く応援してくれるファン会員がたくさんいました。

取材:川北睦子

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